三朝小唄とは

人に人生あり、映画に歴史あり、唄は時代をものがたる……

平成を経て令和の御代だからこそ、あえて「無声映画」!

弁士の語りは百花繚乱!!

目次

三朝小唄

無声映画「三朝小唄」と無声映画「三朝小唄」を語り隊について

無声映画「三朝小唄」の歴史

無声映画「温泉悲話 三朝小唄」スタッフ

無声映画「温泉悲話 三朝小唄」キャスト

無声映画「温泉悲話三朝小唄」制作日程

鳥取新報の記事(昭和2年)

因伯時報の記事(昭和4年)

三朝小唄

三朝小唄   藤本二三吉 歌/野口雨情 作詞/中山晋平 作曲【流行歌 レコード】(YouTube)


泣いて別れりゃ サイショ

空までェ ヨイトヨイトサノサ くもる

くもりゃ三朝がヨ ヤレ三朝がヨ

雨となるヨ

     みささ三朝と サイショ

     皆様エ ヨイトヨイトサノサ いやる

     恋のかけ橋ヨ ヤレかけ橋ヨ

     あればこそヨ

            「ハ 出雲の帰りにゃ またおいで

             よらずに帰るは ふた心

             その時ゃ わたしが追ってくヨ」

三朝湯の神 サイショ

一人がェ ヨイトヨイトサノサ お好き

一人ゃ寝しゃせぬヨ やれ寝しゃせぬヨ

帰しゃせぬヨ

     霧が深くて サイショ

     三朝がェ ヨイトヨイトサノサ 見えぬ

     三朝湯前はヨ ヤレ湯前はヨ

     霧の中ヨ

           「ハ 出雲の神様 縁結び

            寄らなきゃあとから 追ってくよ

            追いつきゃその時ゃかっちゃくよ」

無声映画「三朝小唄」と語り隊について

 昭和2年、野口雨情作詞・中山晋平作曲の「三朝小唄」がレコード発売されました。昭和4年のポリドール(当時のレコード会社)の月報に、「花柳界と云わず、芸界と云わず、カフェ、バーと云わず、街頭と云わず、汽車、汽船の中まで侵入した(のは「三朝小唄」と「草津節」のみ)」と紹介されています。

 この大ヒットを受けて制作されたのが、無声映画「三朝小唄」です。映画界の父と云われた牧野省三が指揮を執り、マキノプロダクション制作、人見吉之助監督、主演に「水戸黄門」「大岡越前」に出演していたことでも知られる岡島艶子(当時20歳)、線の細い二枚目俳優として人気の高かった秋田伸一を迎え、オール三朝温泉ロケで撮影されました。三朝全村(当時)こぞっての援助に感激したマキノが、三朝温泉の風景を撮影したフィルムとともに、映画のフィルムを三朝温泉に寄贈したということです。

 そして、この映画も大ヒットします。一地方都市の湯治場にすぎなかったこの地を、一夜にして大温泉街にした、と、後の語り草にもなりました。当時を知る人にお話を伺うと、三朝橋には通れないほどの人があふれていたとのことです。

 この寄贈されたフィルムを、平成13年8月に同町で上映したことをきっかけに、「三朝小唄」復元プロジェクトが発足します。立命館大学文学部冨田美香助教授を中心に、可燃性フィルムの保存と復元方法、「三朝小唄」の時代背景や三朝温泉とのかかわりなどの研究がなされるのと同時に、DVD化もされました。DVD化により、観光宣伝や歴史的教材使用など、幅広い活用が出来るようになりました。

 昭和初期には数多くの無声映画が製作されましたが、フィルムが可燃性だったこともあり、現存は1割程度です。このため無声映画「三朝小唄」は、三朝温泉だけではなく、日本の宝でもあるのです。

 この宝を守って行くという目的で、平成21(2009)年9月21日、[『無声映画「三朝小唄」を語り隊』は発足いたしました。谷本ホヅミ(梅の丞)隊長を中心に6名での出発でしたが、9名まで増え、地元を中心とした活動弁士が、三朝温泉街の芝居小屋「ニューラッキー」(元は鳥取県最後のヌード小屋)で定期上映しています。 

 そして平成30(2018)年4月より、隊長が山﨑真澄(山﨑くりぃむ)に交代となり、メンバーを入れ替えながら令和3(2021)年現在8名が在籍して活動を続けています。

 どうぞ、皆さま足をお運びください。

 皆さまのお越しを、心よりお待ちしております。

無声映画「三朝小唄」の歴史

昭和2年    

野口雨情・作詞/中山晋平・作曲「三朝小唄」発表

昭和4年    

無声映画「三朝小唄」撮影開始(マキノプロダクション制作)

昭和4年6月8日 

無声映画 温泉悲話「三朝小唄」公開

平成13年8月 

三朝町に残されていたフィルムを上映

平成15年~平成17年

三朝町と立命館大学アートリサーチセンター共同で、フィルムの復元・DVD化

平成18年3月19日

シンポジウム開催

立命館大学文学部冨田美香助教授、同大学COE推進機構大西秀紀客員研究員、川崎市市民ミュージアム川村健一郎学芸員、澤登翠活動写真弁士らが研究発表(チラシPDF

平成21年3月27日

「三朝小唄」誕生80周年記念モニュメント完成除幕式(三朝町こうほう記事

制作は、栃木県在住の彫刻家、倉澤實氏

平成21年9月27日

地元住民の活弁と音楽による、無声映画「三朝小唄」上映会とロケ地巡り

無声映画「三朝小唄」を語り隊 発足

無声映画「温泉悲話 三朝小唄」

スタッフ

マキノ映画

製作 牧野省三

監督 人見吉之助

撮影 木村角山

キャスト

村娘 お久         岡島艶子

東京から来た青年 俊夫   秋田伸一

宿屋の倅 杢之助      柳妻麗三郎 

義理の父親 吾作      岡村義男

お久の妹 おふみ      藤川すみ子

俊夫の元許嫁 通子     多美一枝

通子の弟 謙一       マキノ正美

無声映画「温泉悲話三朝小唄」制作日程

1929(昭和4)年

  5月3日    三朝小唄映画化発表

 5月13日    セットで撮影開始

 5月15日    鳥取入り

 5月16日    撮影隊16人が夕方、倉吉駅に到着。車で分乗して三朝温泉入り

 5月17日    午前中から撮影開始。三朝川及び橋上でのシーン、陣所の風景など

 5月19日    好天。「三朝小唄」踊り、お久が杢之助に追われる、川に落ちるシーンなど撮影

 5月21日    岩湯旅館で撮影隊一行の慰労会を三朝温泉旅館が開催

 5月22日    午後、三徳山を撮影して終了

 5月23日、24日    午前11時半、打吹公園で撮影、午後2時から鳥取市に向かう

          昼夜2回、鳥取帝国館で舞台挨拶。柳妻の奇術や、三朝温泉芸者の「三朝節」など披露

          海岸の場面を賀露浦富海岸で撮影と報道される。

 5月26日    マキノ映画「三朝小唄」のフィルムを無償で三朝村へ寄贈すると報道される

  6月8日    京都マキノシネマ、大阪、神戸で公開

  7月9日    倉吉日本館で1時から試写会

 7月11日    倉吉日本館と三朝劇場”美麗館”で封切公開

  8月1日    鳥取帝国館で公開

鳥取新報

昭和2年(1927年)7月26日

近く来倉する 野口雨情 氏

峯地光重

(一)

いつか雨情氏を尋ねた時、

『鳥取はいいですな、もう一へん行きたいと思ひますね。』

と感慨ふかさうに云われた。

雨情氏が鳥取に来られたのは、たしか大正十三年の冬であったと思ふ、鳥取の印象はよかったと見えて、あふときよく鳥取の人達の名を口に上せられる。死んだ詩人末〇(みね?)君のことは何度聞かされたことか、〇属の谷口君や、田中君のことも何度もきかされた、雨情氏は自然礼賛の詩人であると同時に、美はしい人情礼賛の詩人である

『鳥取はいいですな』――その言葉には屹度鳥取の素朴な自然と、人情とに〇〇が残ってゐて発した言葉であらう、

その雨情氏の希望が偶然にも実現して、八月五日倉吉に来て詩の講習をさるゝことになったのである。


ひとり旅


お空のお月さま

ひとり旅

わが子をたづねて

あるいてる

山にゆきや

茨のぞき

〇(海?)にゆきや

小磯の陰のぞく

千里たづねても

子にゃあへぬ

万里たづねても

子にゃ逢へぬ


これは私たち『児(?)童の村』の主催した報知講堂での『詩と舞踏の會』に於いて雨情氏が朗読された〇〇の一つである。その時雨情氏は感冒で咽喉を痛め、首には湿布をまいてをられた。いつもの詰襟の洋服姿は痛ましい程であった。したがつて小さな声の朗詠であり講演であつたけれど、千二百余の会衆はその人格から迸る野趣にみちた詩情に魅せられてしまつたのだった。

さうだ、雨情氏の詩は黒土のやうに素朴である。素朴、野趣さうした言葉が雨情氏の詩にも人格にもふさはしい言葉であらう。

雨情氏の詩は野趣があるだけで、思想がない――と批評するものがある。けれどもそれは批評する方が間違ってゐるのではあるまいか、思想を表現するためには別な形式があるであらうし、又野趣そのものを通じて雨情氏の思想は十分にあらはれてゐるとも考へられる。

機械文明に対する不満から原始文明を大切に情景する現代の人の心に対して、雨情氏の詩はまことに救であるといはねばならない。

(續く)


昭和2年(1927年)8月8日

音楽と舞踊の 演奏會 

三朝小唄と舞踊

倉吉町教育會主催、音楽舞踊演奏会は六日午後二時からと午後八時からと二回開會、夜は舞台に電燈をもって特別装置をなし白色赤色の〇線を利用して舞踊の美を幽玄ならしめた、當夜の呼物は西村眞佐子少女のボツトやミリタリーマーチ等の新舞踊、杉江(?)秀の独唱(自伴奏)上田治雄(?)のマドリガル(ヴァイオリン独奏)佐藤千夜子嬢の独〇等であつたが佐藤氏は當夜の花形で童謡民謡を巧に歌ひこなして面も其の作曲者なる中山氏が伴奏してゐるのだから演奏は玄に〇〇聴衆に感興をあたえた、最後に中山氏が作曲した民謡三朝小唄を其のおどりと演奏があつて来會一同が中山氏指導の下にこの唄を繰返し~低唱した此三朝小唄は野口雨情氏の作にかゝるものでおそらくは地方の流行をなすものであらう


野口雨情氏

三朝小唄

泣いて別れりやサイショ空までヱ、ヨイトヨイトサノサ曇る。

曇りや三朝がヨ、ヤレ三朝がヨ雨となるヨ

大瀬ぼうきぢやサイショ三朝がヱ、ヨイトヨイトサノサ見えぬ

三朝山陰ヨ、ヤレ山陰ヨ、山の中ヨ

三朝湯の神やサイショ一人がヱ、ヨイトヨイトサノサお好き。

一人や寝させぬヨ、ヤレ寝させぬヨ、かへしやせぬヨ

作謡した雨情氏は語る、此度初めて三朝に来たのですが、来るまでに作謡を依頼されてゐて三朝の景色を想像し、島崎君とも汽車の中で静岡遍で會つて話を聞いたが高い山があつたり渓流があつたりする處を想像して居たのですが事質は反対で構想が全く破れてしまつたので温泉情緒を出して見たいと思つた、誰にでもわかるやうな卑近な口調を以て作つた、何病に効能があるてな能書きでは事にならぬから感じを出すことにした、民謡ではあるが、野碑にならぬ様になるかならぬかの境を辿つた、唄は一つ~独立して唄はれるのだから一つ~で三朝の意味が含まれてゐたいと思ふが全体で三朝々々と重なると耳障りにならぬ程度で三朝の名を入れた、一と三とは同地の情緒を現し二はその所在を現したのである

昭和2年(1927年)8月9日

民謡「三朝小唄」

聴衆に感興興ふ

東伯教育會主催で既報の通り倉吉町成徳校講堂において詩と音楽と舞踊のの講習會に會期中六日夜はこの演奏大會を催し独唱舞踊などが中山氏の指導で演ぜられ最後に野口雨情作中山晋平氏作曲民謡「三朝小唄」は佐藤千夜子さん可愛い踊りに和して聴衆に大きな感興を興へたその歌詞音譜は次の通りで既に音楽趣味のあるもは盛に唄つている様だがやがておそらくは地方の流行唄となるであらう

三朝小唄

泣いて別れりゃサイショ空までエゝヨイト~サノサ曇る

くもりゃ三朝がヨ

ヤレ三朝がヨ雨となるヨ

大瀬ぼうきぢやサイショ三朝がエゝヨイト~サノサ見えぬ

三朝山かげヨ

ヤレ山かげヨ山の中ヨ

三朝湯の神やサイショ一人がエゝヨイト~サノサお好き

一人や寝さしやせぬヨ

ヤレ寝さしやせぬヨ帰しやせぬヨ

因伯時報

昭和4年(1929年)5月10日

「三朝小唄」幹部俳優来りて小唄映画を作成

東洋第一のラジウム温泉として知られている東伯郡三朝温泉は「三朝小唄」で最近東京をはじめ京阪神地方において益々有名にいるがこれに着目したマキノプロでは現代劇部の秋田伸一、岡島艶子などの幹部俳優を派し中川紫朗監督の下に小唄映画を作成することになった一行は今日あたり三朝へ行って数日滞在し撮影するが帰途鳥取市の帝国館へ立ち寄ってステージに立ちファンにお目見えすると

昭和4年(1929年)5月19日

「三朝小唄」をキャメラに 三朝温泉大賑わい 名物の綱曳も世に出る ファン押しかけ非常な雑踏

新作温泉悲話「三朝小唄」を撮影せんとするマキノプロダクション人見吉之助(ひとみきちのすけ)監督の率いる秋田伸一岡島艶子主演の一行は昨報の通り16日夕刻倉吉着直ちに三朝温泉に向かい17日午前中から撮影に取り掛かったが花湯の逗留客や倉吉付近からつどうファンにキャメラを取り巻かれつつロケーションに着手したが当日主なる撮影は三朝川の河鹿(かじか)に名を得た清流に舟を浮かべ青年画家俊夫(秋田伸一)と三朝小町と謳われた町の娘お久(岡島艶子)の蜜の様な場面から橋上の語らいを寫して後前夜行った三朝名物の一つジンショ(勝負綱)の盛んな光景をそのままに三朝青年によってヨイショヨイショと勇ましい所をキャメラに納めその日の撮影は終ったが観衆で非常な雑踏を極めた今日頃は例の昨報した筋書きの三朝神社境内お祭りの夕村の青年男女が三朝小唄筋面白く踊り狂っている所で小町娘お久が酔漢に追われる場面を撮影する予定だから一層賑わいを見るであろう(写真は劇中俊夫画家とお久が橋上の囁き)

昭和4年(1929年)5月23日

マキノプロ一行慰労会 岩湯旅館で

引き続き三朝温泉に滞在温泉寓話「三朝小唄」を撮影中のマキノプロ一行に対し同温泉旅館では21日午後7時から岩湯旅館において一行の慰労会を催しさすがにお手のものの隠し芸がでるやら十二分の贅をつくし散会した

マキノプロ俳優一行 帝国館で挨拶

愈々本23日来鳥今名二日昼夜帝国館のステージにて挨拶する由なるが余興として既報和製チャップリン事柳妻麗三郎の奇術明し等の他に三朝芸者襲名を招し本場の三朝ぶし及び手踊りを実に供し入場料は値上げせずとの事なれば絶大の好人風を博すことなるべし尚海岸の場は今明日中賀露海岸にロケーションするとの事

昭和4年(1929年)5月26日

鳥取を中心の孤児哀話をマキノが映画化

 三朝小唄を映画化したマキノでは次回作品としては鳥取を中心とした教育映画を作成する案をたてマキノの中川紫朗氏は既に脚本部に命じて右作品のシナリオをを執筆せしめつつあるらしいが、右は鳥取育児院における哀話を取り扱ったものであると尚マキノでは三朝小唄撮影に際して三朝全村挙って援助したのに感激し映画完成後直ちに鳥取市帝国館で封切の上右映画プリントを無償で同村に寄贈することにしたそうである。

昭和4年(1929年)月日不明

キネマ 待ちかねた「三朝小唄」 愈(いよいよ)倉吉日本館で

ファンから一日遅しと待たれたマキノプロが本場の三朝温泉で5月中旬一週間を要してプロダクションした温泉悲恋哀話「三朝小唄」は今や小唄が全国を風靡して居るだけに知るも知らぬも寵児のように各地でもてはやされている昨今地元倉吉や三朝温泉ではまだかまだかと熱烈な期待に待ちわびていたが愈々本社倉吉支局後援となり今11日から既報の通り倉吉日本館及び三朝劇場美術座で同時に山陰の封切公開することとなった、それがため日本館では一昨9日午後1時より試写会を催したが先ず最初水蒸気の立て籠もった三朝温泉場がスクリーンに現れて充分温泉気分をそそるそれから村の娘お久か三朝橋に佇立しているバックに「三朝湯の神ヤサイショ一人かエョイトヨイトサノサ……」の三朝小唄のタイトルが出る次で脚色された年一度のお祭りの日の青年男女か三朝踊りに踊り狂うところから東京より遥々温泉情熱を描かんと滞在し居った青年画家三浦俊夫(秋田伸一)か踊りの群の誘惑の間の手から逃れ込んだ村の娘お久(岡島艶子)と恋が芽生えて甘いラブシーンを見せ「泣いて別れりゃサイショ……」で結んで居るか小唄映画としては先ず余程芸術味が感せられる、ただ強いていえば人口光線のカット撮影が少なく大部分が三朝温泉場で野外撮影をなして居る関係から天候などで光線に無理があり時々暗い感じのするのは遺憾である。しかし其処には苦心の跡も窺われる、この映画上映中は特に三朝青年や芸者が出演するので一層の人気を呼んで居るそれにこの週間大作の原始民族と猛獣の大闘争「チャング」の教育映画その他共にファンを熱狂せしめることであろう

▲米子電氣館 10日封切

片岡千恵蔵大猛煙ゴロン棒時代△澤田博主演塚原小太郎△岡田時彦、高木永二、中野英二、島耕二、小杉勇、夏川静江、入江たか子、草川よし子主演激流後篇△入場料今週特別30銭と20銭

△米子キネマ館 12日封切

米國大ユナイテッドアーチッス會社高級映画キートン将軍△松竹林長二郎熱演△時代劇京洛秘帖△坂東妻之助力演時代映画〇川天一坊△鈴木傳明猛演時代喜劇近代武者修行

昭和4年(1929年)7月4日

三朝温泉 浴客激増 映画「三朝小唄」で宣伝された為か

「三朝湯の神やサイショ」の三朝小唄は今や全国津々浦々風靡してそれに目を着けたマキノプロが悲恋寓話「三朝小唄」をロケーションしてすでに各地の封切館で上映し非常な人気の発信となっているがこの期せざる宣伝があたったか東洋一を誇る東伯郡の三朝温泉は例年これから夏季に入って浴客が減ずるのに昨今はこれが京阪の遠客が頓に激増し昨年などの二倍に相当し各旅館とも大多忙を極めてこの頃の夏枯れにホクホクものである